米国の国際文化政策が、国家的次元を獲得したのは、第二次世界大戦に先立つ1938年にラテンアメリカを対象とした教育文化交流のプログラムによってであった。それまで民間の手に任されていた分野に米国が乗り出してきた背景には、ラテンアメリカへの影響を強めつつあった枢軸諸国に対抗する意図があり、戦時体制をにらんだ宣伝活動をも含みつつ、後に技術協力につながっていく系統と、広く諸外国との交流や理解の深化を目指す系統を併せ持ちながら発展した。 戦後の国連を中心とした国際開発協力の分野で、米国は中心的な役割を担うことになる。特に、世界銀行、IMFによる自由主義的な国際経済体制、いわゆるブレトン・ウッズ体制の盟主となったことは、米国の国際的な教育文化政策が、世界銀行を中心とする国際開発援助政策と乖離することなく進行していくことを自明とする。その意味から、開発潮流の「主流」である世界銀行の教育分野の活動は無視できない。 さらに、1980年代までの米国の教育分野での二国間援助を考える場合、米国の国際的な教育文化交流の成立の歴史、そして冷戦という状況をふまえることが必要である。その上で、1960年代以降の国際教育に関わる事例を見るとき、それは、孤立主義を脱して未知の分野に望むことになった国の自身の国際化に向けての多様な動きの一環であること、国益重視の観点と理想主義的な観点からの活動を併せ持って発展していること、そして米国自身の国内事情や対外政策によって大きな影響を被っていることを知ることができる。
|