この研究によって明らかにしたことは以下の通りである。 (1)実業補習学校史の重要な画期は1920年の実業補習学校規程改正にある。この改正によって実業補習学校は都市部と農村部の顕著な差異を示しながらも、高等小学校につづく大衆教育機関としての性格を強め、国民教育制度のなかの青年教育機関としての重要な地位を確立した。 (2)1920年代以降は、農村部では、実業補習学校の通年制化・専任教員・独立校舎の確保などの充実策が課題となり、長野県のように、実業補習学校の名称を「実科中等学校」とし、実業補習学校でありながら実質的に中等教育としていく事例がみられた。これは大衆的中等教育の萌芽を示すものである。また、都市部では都市の産業に密着し、勤労青年の職業教育要求に応じた形で、実業補習学校の職業教育機関としての整備・充実が進められた。さらに1935年の青年学校令は、実業学校令に定めのある乙種程度の職業学校へと、有力な実業補習学校が一挙に転換する契機となった。 (3)戦間期には、東京市などにおいて都市教育の計画が実施された。そうしたなかで、都市特有の市民の教育要求を実現する教育機関として実業補習学校が注目された。たとえば川本宇之介は、実業補習学校教科課程の柔軟化、女子実業補習学校の拡充、市民の教育教育要求にもとづく実業補習学校の整備・充実などを提案している。こうした構想は、後に東京市などで一部実現している。 総じて、実業補習学校制度の歴史は、下からの大衆的な中等教育形成の重要なファクターとして、また初等教育と中等教育の接続関係の変容に寄与したものとして位置づけることができる。
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