寺院管理法をめぐる訴訟記録は未開拓な試料である。本研究から明らかになるのは宗教と国家といった一画的な対立図式ではなく、より重層的な葛藤の構造である。また人類学と歴史学との関係をめぐる議論にも貢献することができたが、その際、人類学的な調査にもとづく民族誌的資料の蓄積のすでにある寺院を取り上げることで、より具体的で深い理解と分析を試みた。 全体として言えることは寺院管理法の制定とその発展を通じて地域が西欧近代の法的言説の世界に組み込まれることになったということである。以下のことが指摘できる。1)南インドでは寺院が政治・経済・文化の中心施設であり、寺院の管理をめぐってさまざまな対立が認められた。だが、それは政府対民衆、英国対インドという図式で単純にとらえられるものではない。訴訟記録を見ていくと寺院管理をめぐる対立がさまざまなかたちをとっていることがわかった。それは司祭対地元の有力者(管理者)、司祭以外の寺院で働く人々(花屋などのカースト)と管理者との対立、管理権を争う有力者間の対立、そして管理権を主張する政府と地元有力者との争いなどである。2)つぎに重要と思われるのは、管理法の制定に反応する形で、寺院の側から寺院運営や組織、祭りなどについての慣習を規律として文章化する動きがあったことである。これも寺院を中心とする地域コミュニティが法治国家の言説に取り込まれていく過程を示す現象と考えられる。
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