本研究は山形・秋田の両県にまたがる鳥海山の周辺地域で活躍してきた鳥海山修験の全体像を解明するために、今まで未解決で手つかずのままであった山形県遊佐町の蕨岡地区に焦点を当てて、鳥海山修験の宗教生活、宗教活動とその組織の実態、位階を受けるためなどの様々な儀礼のプロセス、また本山であった醍醐三宝院との関係をさぐることを目的としたものである。そのためには「蕨岡三十三坊」と呼ばれていた旧修験の家々及び、鳥海山大物忌神社、龍頭寺に残る資料を収集し、また地域の人々の記憶に残る伝承を記述する作業を進めてきた。 1995年度は5月に10日間、8月に6日間の集中調査を行い、12月には3日間ほど補充調査を行い、資料の収集、聞き書き調査を実施してきた。その結果旧修験の家々の資料はほぼ収集をし終えたが、鳥海山大物忌神社所蔵文書は現段階では約三分の一ほどの収集を終えたところであり、まだ全体像をつかむに至ってはいない。そうした中で明治中期に旧「蕨岡三十三坊」の出身者で、鳥海山大物忌神社蕨岡口ノ宮の神官によって記録された『大社考』という資料を発見した。この資料は近世期の蕨岡修験及び鳥海山周辺の修験者の動向を極めて詳細に記述したもので、当地域の全体像の解明に向けて貴重な資料であること推察される。しかしながらこの資料は明治以降に書かれたものであるから、現段階では『大社考』がどれほど信憑性があるのか、近世期の資料と突き合わせて確認をして行く作業が必要になって来る。そのため1996年度の課題として、残りの資料の収集、整理、そして『大社考』の資料批判を行って行くことが必要と考えられる。
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