本研究は山形県遊佐町の鳥海山蕨岡地区に残る、今まで未解決だった鳥海山修験の宗教生活、宗教活動とその組織の実態、位階を受けるための儀礼のプロセス、本山醍醐三宝院との関係、地域の人々の記憶に残る伝承などを探り、地域の文化の拠点の一つであった蕨岡修験に光を当て、地域社会の中での位置付けと、周辺地域に及ぼした文化的影響力の解明を目的として行ったものである。そのために蕨岡三十三坊と呼ばれていた旧修験の家々、鳥海山大物忌神社蕨岡口ノ宮、そして真言宗龍頭時の文書資料を調査収集した。またそれと平行して蕨岡に現在も伝わる大御幣祭り、御種蒔神事などの年中行事の調査を行った。その成果は本報告書の中で(一)蕨岡修験についての考察としてまとめた。内容は、はじめに、鳥海山の修験について、1鳥海山修験の本末関係、2一山組織、3修行と位階、4霞と牛王宝印、5坊宿と門前、6神仏分離令である。 そうした調査の中で明治中期に旧「蕨岡三十三坊」の出身者で、鳥海山大物忌神社蕨岡口ノ宮の神官によって記録された『大社実録』を発見した。この資料は近世期の蕨岡修験及び鳥海山周辺の修験者の動向をきわめて詳細に記述したもので、当地域の全体像の解明に向けて貴重な資料であることが予想された。それゆえ今後の研究に役立つよう(二)明治三八年に書かれた『大社実録』として、全文を翻刻して本報告書に掲載した。 またこれまでコピーとして収集した資料は(三)鳥海山蕨岡地区に残る修験文書目録として、1鳥海山大物忌神社上蕨岡神庫、2小野政子家(明光坊)、3鳥海尚覚家(玉泉坊)、4鳥海宗晴家(南之坊)、5龍頭時の順に掲載した。
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