高橋昌明は、1996年10月職場を異動し(滋賀大学→神戸大学)、かつ後期前任校の教授を併任した。そのため、研究従事時間が不足し、しかも一旦科研費の辞退と再交付の手続きを行わねばならず、備品や謝金の執行を予定通りすすめることができないことが予想された。そこで当初予定していた研究計画を、実状にあわせて修正した。 本年度は、常識となっている武士論・貴族像(都で遊宴に明け暮れる怠惰な貴族と、東国農村で成長し、やがて貴族を圧倒する質実剛健な武士)が、どのような政治的背景とイデオロギー的意図のもとに登場し、いかなる過程を経て国民的常識として定着するに至ったか、という問題を中心に研究を行った。 その結論は、江戸幕府が頼朝の幕府を自己の模範とした結果、初めて貴族を圧倒した鎌倉武士こそ本来の武士だ、という意識が近世になって形成されたこと、公家を切り捨て天皇を太元帥といただく、明治国家の強兵富国的性格が、その観点をさらに助長したこと、さらには戦後の日本でも奴隷制から封建制への「世界史の基本法則」が貫徹したことを主張する領主制論などの強い影響が、主たる原因であるとの結論に達した。この研究成果については論文としてまとめ発表した。 また、鎌倉武士の騎射芸の代表的な披露の場と考えられてきた鶴岡八幡宮放生会流鏑馬行事の成立過程を分析し、そこにおいて流鏑馬にたずさわったのは、典型的な東国在地武士ではなく、囚人となった平家の武士や、鎌倉御家人でも元来都の生活が長く、かって鳥羽離宮の馬場などで流鏑馬に参加した人物たちであることを明らかにした。この研究成果も論文にまとめ発表した。
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