幕末における西洋近代学術移植の画期は、文久2年から慶応元年にわたる西周・津田真道のオランダ留学である。二人は、この留学にあたってはっきりした目標を持っていた。すなわち幕府官僚として、その施政の参考となるべき学科の習得をめざしているのであり、換言すると国家統治に役立つべき学問にほかならない。かくて西・津田は、榎本武揚ら海軍関係の留学生や職方の伝習生と共に渡蘭、かの地でライデン大学教授のシモン・フィッセリングに就いて満2ヶ年余にわたる五科-性法学(自然法)・万国公法学(国際公法)・国法学・制産学(経済学)・政表学(統計学)-の学習にはげんだのである。西と津田は、1865年10月、ライデンを発して、パリを経、同年12月、横浜に帰着した。時あたかも、幕府はその倒壊期に臨んで、いかにしてこれを回復するかに腐心していた。西・津田の二人は、同僚の加藤弘之等とともに公議所御用取扱いを命ぜられ、議会制度創設に力を尽している。そこで二人は、幕政を急角度に転換して、徳川家を中心とする立憲政治に向かわしめんと考え、これを企画した。それはもちろんオランダ留学で習得した新しい政治知識の活用であった。
|