3カ年にわたる本研究は、技術史研究と社会経済史研究の接点を農業史の分野で探るため、明治・大正期における技術革新の様相を分析したものである。従来地主・農政主導による技術革新と見なされていた歴史像に対して、技術の普及過程すなわち自作〜小作農民等生産者農民の観点から再検討を試みたのである。新技術の奨励・強制も彼ら生産者農民の動向如何で成否が決定されるからであり、何よりその場面で社会経済史的研究との接点が可能になるからに他ならない。本研究により得られた新知見は、以下の通りである。 対象としたのは国内で最も零細農耕を営む広島県と逆に最も粗放的な秋田県であるが、ともに明治前期の低生産力レベルから時間差を伴いつつ同末期〜大正期に平均反収を2石レベルに倍増させたのである。その要因として、(1)稲品種としては周知の晩稲神力(広島県)・中稲亀ノ尾(秋田県)の普及。これらの多収性が生産者農民の技術革新へのモチベーションを形成したということであり、地主制下の技術革新は品質より収量確保の方向性を余儀なくしたということである。(2)各品種の導入はそれに伴い技術システム全体を変革せざるを得なかったこと。広島県では深耕・多肥化で神力の多収性を実現させねばならず深耕具である改良犁導入を必然化させ、秋田県では湿田の乾田化により深耕・多肥化→亀ノ尾導入のコースをたどったことが史料的に確認できた。(3)従来乾田化は地主主導の耕地整理事業によるものとされてきたが、むしろ多くは簡易な明渠排水法であり小作人レベルでも十分対応可能な方法であったことを明らかにした。(4)多肥化は廉価肥料の出現(秋田県では厩肥増投)、改良犂はブランド品のみならず廉価なコピー生産が普及を助けたが、何より農会・産業組合の共同購入など農政による条件整備が一定の役割を果たしたと考える。ただ中央政府の農政との関わりは、今後の課題となった。
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