積極的な富国強兵策をとり、領国の文化や商工業を興隆させたというのが戦国大名に対する通説的評価である。しかし、史料や考古学的資料などからみると実態は異なり、経済力を背景に中央から積極的に文化を取り入れていたのであった。 東国の代表的な戦国大名後北条氏を例にすると、二代氏綱より有力公家の近衛家と芸術面を中心に関係を持っていたことは既に知られるが、実態は文芸や絵画などの芸術的な分野のみではなく、鶴岡八幡宮造営の職人や医師などの職能者の斡旋も近衛家に依頼していた。また、氏綱の叙位・任官や、伊勢姓から北条姓への変更の際の朝廷に対する政治的工作についても、近衛家が介在していたといえよう。実に多方面にわたっていたのである。 戦国大名が特定の公家と結びつく例は既に指摘されているが、北条氏と近衛家はその典型といえよう。地方の戦国大名は、中央との文化的格差や、政治面での不利を克服するために、有力公家との関係保持は不可欠であった。 また、戦国時代後半になると、中央の商人や職能者の積極的な地方展開も見られた。中世東国の経済は独立的に機能していたと思われがちであったが、中央の経済活動と連動して動く部分も存在した。政治的には中央からの独立を指向した戦国大名であったが、文化や経済面では依然として脱却できなかったといえよう。
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