1.『寧古塔副都統衙門档案』と『三姓副都統衙門档案』の解読を進めて、17・18世紀におけるアムール川中流地域の民族分布と民族移動の問題を研究した。従来の見解では、『柳辺紀略』の「剃髪黒金」は『皇清職貢図』の「七姓」に該当すると言われてきたが、わたしが行なった研究によると、「剃髪黒金」と「七姓」は別の集団であって、「剃髪黒金」は18世紀初めに西の牡丹江河口に移動し、やがて満州族に同化するのに対して、「七姓」は「剃髪黒金」が西に移動した後に、アムール川下流から中流地方に遡ってきた集団で、今日なお同地域に居住する赫哲族の祖先であった。 黒竜江将軍衙門档案』を解読して、清朝によるサハリン統治の起源を研究した。この問題はこれまでほとんど研究されたことがないが、今回の研究によれば、清はネルチンクス条約を結んだ翌1690年に、アムール川左岸とサハリン地域において大がかりな調査を敢行し、調査隊の一部はサハリンに達して、住民を辺民に組織している。北京にいたイエズス会士のトマスは早速調査の成果をとりいれて、かれが同年に作製した地図の中には、アムール川の河口付近に一つの島を図示している。 3.『寧古塔副都統衙門档案』にはサハリンに関する情報が、かなりの量含まれている。それによると、サハリン北部のニブフ族とウイルタ族は、18世紀初めからアラーム川下流に朝貢していて、それらの氏族名や居住地、さらには少数の人名すらも明らかにすることができる。それらはクイェフィヤカではなくてジェアィヤカに属しており、そのたにら発見できなかったのである。
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