「オーストリア=ハンガリー・アウスグライヒ体制の構造」研究実績 1867年以降のハプスブルク国家は、アウスグライヒ体制と呼ばれるユニークな二重国家体制をとった。その体制はプロイセンとの戦争に敗れ、ドイツ統一から排除されたハプスブルク帝国が、東欧の多民族国家として生きる道筋を明らかにしたものだが、そこには内的な歴史的プロセスがあったことも事実である。平成7年度にはまずハンガリーの政治指導者たちの帝国へのアプローチを中心にアウスグライヒ成立にいたる歴史過程を明らかにした。 次に実際のアウスグライヒ体制の展開について、共通陸軍と通商、通貨の二点を中心に研究を進めた。共通陸軍は共通政策の要として、オーストリアとハンガリーの一体性を象徴していた。しかし例えばその民族政策はオーストリアとハンガリーの民族政策の相違を反映して、両者の自立性と対等性との緊張関係の中で展開された。例えば、共通陸軍は軍隊として統一された行動をとる必要がある一方で民族の自立性を尊重する必要があったから、軍隊内で使われる言語を指揮語と連隊語に分け、指揮語をドイツ語とし、連隊語を各民族言語としていた。ハンガリーはその際ハンガリー語がほかの民族言語と同等であることに不満だった。 通商、通貨政策については、十年ごとの経済協定をめぐるオーストリアとハンガリーとの対立と協調を明らかにした。ここでも工業利害を優先するオーストリアと農業利害が優先するハンガリーとの間で共通性と自立性、対等性とをめぐる緊張関係があった。今後はオーストリア、ハンガリーそれぞれの自治に属する領域における共通性と対等性の問題を考えていきたい。
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