動態としてのアウスグライヒ体制 ハプスブルク帝国はもともとハプスブルク家と国法的な関係を結んだ諸領邦の集合体であり、二十世紀初頭には十一の言語集団を含む多民族国家だった。他方のハプスブルク家は永く神聖ローマ帝国の皇帝位を独占し、ドイツ世界の盟主の役割も果してきた。一八六六年にプロイセンに敗れてハプスブルク帝国はこの二律背反する使命から解放され、東欧多民族国家の道を歩むことになった。その第一歩がハンガリー人が多数を占めるハンガリー王国に大幅な自治を認めたアウスグライヒ(均衡)の実現だった。 アウスグライヒ体制の下では、オーストリア、ハンガリーはそれぞれハプスブルク家の当主に対して責任を有する自立した政府を持つと同時に、外交と軍事と財政の三分野を共通業務として定め、それぞれ共通大臣を置いた。帝国全体に関する最高の意志決定機関は共通閣議では、ここにはオーストリアとハンガリーの各首相、共通大臣、関係高官そして時には皇帝にして王国自身が出席した。 オーストリアとハンガリーの自立性、対等性、共通性を規定したアウスグライヒはハンガリー王国の国法の復活であると同時に、ハンガリー人の民族的欲求に応えたものでもあった。さらにオーストリアの部分では一八六七年の憲法が民族の平等を保障していた。それはオーストリアの中での諸民族の自立性と対等性を保障するものだった。 アウスグライヒ体制は、領邦の集合体であったハプスブルク帝国が近代国家化する中で生じてきた民族の問題に対応する論理だった。その特徴は一つの均衡が新たな不均衡を自覚させ、さらに高度な均衡へ向けての調整が行われるというダイナミズムにあった。それが帝国という枠の中で、自立性を強めた諸民族の発展を生み出すことになった。しかしそれはあくまで諸民族の自立性と帝国の共通性の微妙なバランスの上に成立しており、そのバランスを破壊した第一次大戦を生き延びることはできなかった。
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