オーストリア=ハンガリー・アウスグライヒ体制の構造 ハプスブルク帝国には主なものだけでも11の言語集団を含む多民族国家だった。そのハプスブルク帝国は、アウスグライヒと呼ばれる特殊な統治形態をとっていた。それは1866年に対プロイセン戦争に敗北して統一ドイツから排除されたハプスブルク帝国が、1867年にハンガリー人が多数を占めるハンガリー王国に大幅な自治を認めて実現したものだった。この研究てはこれまでその論理と構造を分析してきた。 アウスグライヒ法はオーストリア、ハンガリーに共通する国事行為(共通業務)として外交、軍事、およびそれに関わる財政を挙げ、両者の協議事項として通商、間接税、通貨、鉄道、防衛体制を挙げた。そのほかの業務はそれぞれの責任政府に委ねられることになった。共通業務に関しては、それぞれに皇帝に責任を有する担当の閣僚(外相、陸相、蔵相)が置かれた。オーストリア、ハンガリー両国政府の長(首相)は、それぞれ君主に対して責任を有したが、両国は共通の君主(ハプスブルク家)を載くことで同君連合の形をとった。また共通業務、およびアウスグライヒ体制に関わる重要な内政問題は共通閣僚、両国首相、関係高官、時には皇帝自身が参加する共通閣議によって最終的な決定が下された。アイスグライヒ体制はこのように、オーストリア、ハンガリーそれぞれの自立性、両者の対等性、帝国としての共通性の微妙なバランスの上に立っていた。 今年度はその成果の上に立って、次の二点でアウスグライヒ体制の史的展開を考察した。一つは共通陸軍である。共通陸軍は共通業務の要として、オーストリアとハンガリーの一体性を象徴していた。しかしそれはまたオーストリアとハンガリーの体質の差が顕著に現れる場でもあり、そこから様々な緊張関係が生じることとなった。もう一つが通商、通貨政策である。通商、通貨政策は協議事項として十年毎の経済協定によって調整され、オーストリア、ハンガリーの利害の調整の場となった。その結果、アウスグライヒ体制の下で、オーストリア、ハンガリーそれぞれが自立性と対等性と共通性を深めていき、それが帝国全体の民族のあり方にも一つのモデルを提供したことが明らかになった。
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