まず、今年度は、フランス革命がサヴォワ地方に与えたインパクトとリアクションを検討した。その結果、以下のことがわかった。サヴォワ併合は、ブルジョワを中心に革命を受容する名望家が存在していたこと、およびフランスによる占領は過去にもあり、住民は占領軍との余計な摩擦を好まなかったために、比較的スムーズにいった。しかし、革命の急進化、とくに非キリスト教化政策の激化にともない、農村住民は革命政府から離れていき、ところによっては激しい反革命運動も起こった。この革命期の思い出は長く尾を引き、ナポレオン没落後、フランスとピエモンテ=サルデ-ニャ王国との間での国境線の画定の際、サヴォワではサルデ-ニャへの復帰運動が起こっている。 続いて、1860年の最終的な併合までのサヴォワでの世論の変化を追ってみた。ピエモンテ=サルデ-ニャ王国は、次第にイタリア統一運動へ足を踏み入れていくが、このためサヴォワの指導層では、トリノ(ピエモンテの首都)離れが生じ、サヴォワの地方意識が芽生えてくる。こうして、1860年の時は、ナポレオン没落後の反フランス=親ピエモンテ運動の中心であったカトリック聖職者が、併合支持運動を活発に進めていくのである。このように、国民国家建設の地代のなかで、サヴォワはいやおうなく、ネガティヴな形で自らの地方の独自性意識・辺境意識を目覚めさせられた。しかし、他方では、その地方意識は独立運動へは向かわず、県名に地方の名が残る(これ自体はフランスの県名としては異例であるが)など地方の自尊心に多少配慮したマイナ-な譲歩を得ただけで、フランスというもうひとつの国民国家へ併合されていくのである。
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