中部高地は、日本列島有数の黒耀石原産地帯として著名である。その中部高地産の黒耀石が上部旧石器時代に南関東平野部へと運搬されていたことは、すでに理化学的に実証済みである。では、そうした黒耀石の運搬は、一体いつどのようなかたちでおこなわれたのか。 本研究は、中部高地産黒耀石の南関東平野部への大量運搬が上部旧石器時代の前半期と後半期の二度にわたった事実を、また前半期と後半期では黒耀石運搬の様相が異なる点を明らかにしてきた。つまり、前半期には、南関東平野部に生業活動の拠点をもつ移動生業集団が中部高地に直接赴き、原石を採取し石器を制作するとともに原料用の原石と製作済みの製品を大量に運搬した。一方、後半期をむかえると、専ら中部高地で原石の採取と石器製作をおこない主に製作済みの製品を南関東地方へと運搬する石器製作者集団が出現し、南関東平野部の移動生業集団は中部高地産の黒耀石を間接的に入手するようになるのである。 そこでつぎに、石器製作者集団の居住様式を詳細に分析したところ、移動生業集団との間に大きな格差が生じている実態が判明した。石器製作者集団は、移動生業集団が残した簡便な作りの短期・一回居住型のイエとは異なり、例えば長野県鷹山第IS遺跡や神奈川県田名向原遺跡など中部高地と南関東平野部の双方に、縄文時代の竪穴式住居の祖形とも見られる竪牢で長期・反復居住型の構造をもつ工房を構えているのである。すなわち、石器製作者集団の出現は、移動生業集団の自給自足による直接的な黒耀石の入手を間接的な入手へと変容させ、旧石器時代人の移動生活の中に定住生活化の萌芽をもたらせた。これが、物々交換の一環としての黒耀石流通のセンターとネットワークが成立するにいたる、その歴史的な第一歩となったのである。
|