古典期において、小説を含むレシは、単純過去と半過去によって語られるという規範が確立され、古仏語や中世フランス語におけるような、「語り手」のパ-フォーマンスを示す現在時制は排除されるに至っていた。そこでの現在時制はいわゆる「歴史的現在」(present historique)が中心であった。この現在時制の用法は、単純過去時制に代わって用いられ、語られる動作や事象の「突然さ」「異様さ」を強調し、その場面を「生き生きと」描き出す効果を持つものとされた。 しかし19世紀中葉から、レシのまとまった部分がすべて現在時制で書かれることが行われはじめるようになり、20世紀のヌ-ヴォ-・ロマンでは、単純過去と半過去による語りは、むしろ現在時制のみの語りにその覇権を譲ってしまったかのようである。 この新たな現在形の台頭と、「語り手」の再現の経緯を考えるとき、示唆的なのが「夢」の語りである。「夢」の語りは古典古代から、文学には不可欠なトポスであるが、その特徴は、ほとんどのケースにおいて夢で見た「私」が一人称で語る点にある。小説の形式が三人称であっても、「夢」はそれを体験した人物の直接話法の形で語られる。そしてそこでは「夢を語る私」「夢を見る私」「夢に出てくる私」の3つの異なった主体の審級があるときは部分的に重なってテクストに現れるのである。この審級の重なりは、特に「夢を語る私」と「夢を見る私」に起こりやすく、それが時制に反映されたとき、現在時制が用いられる。19世紀半ばにすでにBaudelaireが自らの夢の体験を現在時制で綴っていることが、「夢」の語りと現在時制の親和性を示している。その現在時の主体は「語り手」であると同時に「体験者」でもあり、この「語り手」の「体験者」の中への溶解が、20世紀の新たな現在時制の語りを予言していると考えられるのである。
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