以下の点が明らかになった。すなわち、国際環境汚染をめぐる紛争の解決策のひとつとして、国家が責任を引き受ける、という仕方が考えられる。国家は責任の所在を明確にすることを嫌い、それは国際環境法における不確実さにつながり、それがまた国家のコミットメントを遠ざけるという悪環境に陥る傾向にある。民衆訴訟はクラスアクション、司法積極主義ともあいまって人権の拡大に大きな役割を果たしたことは疑いなく大きな功績であるが、それが法的に執行可能な権利に結実することがきわめて希である点に、その弱点がある。上述したように民事訴訟による環境汚染責任追及は、その機能発揮を期待される反面で、現行の制度上の未整備もあって、もっとも効果的に責任追及が出来るとはいいがたい現状にある。そこでこれを補完する形で、交渉による紛争解決処理がどの程度の有用性を持つか、が検討されなければならない。総じて交渉を訴訟と比べた場合、当事者にとって大きな意味を持つのは訴訟費用、時間を双方含め意味でのコストではないか、と思われる。 もっとも少なくとも大規模な環境紛争の事例を検討してみると、交渉による解決が常に早くかつ安上がりにつく、とはいえないようである。むしろメリットとしては、裁判所が「命じる」解決よりも、交渉による解決は当事者により受け入れやすい決定をする可能性を持つという点にあるようである。ただその場合に、利害を有する関係者またはその代表が交渉の場に出席する機会をきちんと与えられていることが不可欠であり、この点が欠けるならば交渉のプロセス自体に疑問が投げかけられ、その結果ことはかえって粉糾することになる。 複雑かつ専門的な知識を必要とする環境紛争においては、訴訟というメカニズムは「真実」を明らかにしているという少なくとも外観を持つため、多くの場合、関係者は訴訟に傾く傾向があることは否定できない。というのは交渉はあくまで対立する利益の調節にすぎず、「正解」を与えるものとしては受け取られないからである。また交渉においては、利益調節の前提として、相手方に自分の主張も多かれ少なかれ正当性を持つことを認識されることが必要であるのに対し、訴訟においてはその必要がないこともかかる傾向を助長している。
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