都市社会事業の「本格的な」展開は、1929年の教護法の制定と金解禁から日本経済が世界大恐慌にまきこまれたことを大きな契機としているといってよい。前者は恩恵的恤救規則から、不十分ながらも、「近代的」な生存権保障への移行の契機となり、六大都市を中心に自治団体がさまざまな都市社会事業を展開するうえでの行政権限と財政措置を与えられる法的根拠となった(肯定的表現は評価を誤っているとうけとられるかもしれない)。後者は、人々の生活条件を劣悪なものとし、都市社会事業が展開される社会経済的背景となることがらであった。各種の時局救匡事業がその後展開されるが、時局救匡医療事業は農村保健対策から国民休力法、国民医療法へという「健民健兵政策」の重要な出発点になったとみることができる。 こうした状況のなかで、都市あるいは市街地における人々の生活の「協同化」も進展する。それは一方で「産業組合主義経済組織」形成として、また他方では各種の「社会改造」運動の一環として。後者は、とりわけキリスト教社会主義(及び社会移民主義主義系統)とボリシェビズムとの路線対立、「ロッヂデ-ルかモスクワか」ともいわれた路線対立をうみだし、個々にはそれなりの歴史的成果をうみだしながらも、全体としては、必ずしも十分な発展をとげることなく、また戦後に持ち越した問題点も多い。 本研究は、こうした歴史状況を、個々の消費組合の歴史をも明らかにするなかで、解析してみようとしたものであった。しかしながら、この時期の歴史的史料には大きな限界があるため、現時点では、論文というかたちでは研究はまとまっていない。近い将来には、この研究活動を形あるものにしたい。
|