18世紀から第2次世界大戦にいたる時期の機械産業従事者約360名の入職に関する伝記的データを分析した結果、クラフト的規制の根幹である入職規制が1830〜40年代に労使間の慣行として定着し、以後維持されたことを明らかにした。この時期の機械産業初期組合は徒弟制度に基づく入職規制のルールを弛緩させたのだが、使用者は必要な能力を備えた労働力の養成を明確に客観化せず徒弟制度に依存したため、機械産業新職種に徒弟制度が形成され、旧職種の徒弟制度は再編された。ネイスミスのように徒弟制度を破壊しえた使用者もいたが、養成過程を客観化しなかった点では他の使用者と同じであった。 19世紀中葉には入職規制だけでなく、徒弟数制限、職域、新機械、労働時間・残業、賃金制度などにもクラフト的規制が定着した。19世紀後半に労働組合に対応して使用者団体の強化が進展するが、その機能はクラフト的規制の存在を前提にしており、むしろ個別企業を制約する力が与えられた。この時期に管理問題が自覚されるが、能力と現場権限は明確化されず、クラフト的規制の基盤は無傷で維持された。使用者は職長の非組合員化で管理問題に対処しようとしたから、職長たちは自主的な組織化を選択して、「エンジニアの文化」に依拠して自己を主張した。 戦間期のイギリス機械産業にはクラフト的規制を打破する客観的可能性はあったが、労使関係制度に制約されて、それは実現しなかった。ここでも使用者たちは一方ではクラフト的規制の不当性を主張しなから、他方では、自らの判断と良心に基づく労働を重視して、クラフト的基盤に依存していたからである。
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