我々の住んでいる世界は新古典派経済理論-そこでは経済主体は完全合理性をもち、将来の不確実性を確率的に計算可能である-が想定する「ergodicな世界」ではなく、確率計算の科学的知識を欠くという意味で「不確実性の世界」である。しかし、それは全く不可知的な世界ではない。完全知・完全情報をもたない「限定合理性」下にある経済主体は様々発信される経済情報の中「価値ある情報」をもとに主観的確率に「確からしさ」を認知し、満足ゆく選択行動の道標とする。 個人部門は、限界的な情報入手コストが高く、かつ情報の解析能力に乏しいため「価値ある情報」を自ら生産することもせず、外部情報への依存性が高い。金融情報に関しても、個人部門のその認知度や入手関心度が高くない。さらに金融資産とその情報の特殊性に基因する金融機関の非個性化現象はマス・メディア流布される同質的な「一般化された金融情報」を生産させた。情報入手コスト・解析の両面から情報サーチ利益の高い「一般化された金融情報」を価値ある情報として金融資産選択の道標に個人部門は利用する、と考えられる。70年代預貯金金利改定時における郵便定額貯金に関する「一般化された金融情報」は個人部門の定額貯金-民間定期預金比率を高めさせ、定額貯金の増加に有意性をもって作用した。また、資料上の制約があり、十分な検証が出来ていないが、「懸賞金付き定期預金」の発売に関連する「一般化された金融情報」もその預金増加に有意に作用したし、発売に関し創業利益の存在も見られた。 限定合理性下にある個人部門は、その行動規範から「一般化された金融情報」に対し、内発的学習効果を習得する。しかし、定額貯金-民間定期預金比率についての検証結果から個人部門の金融情報に対する学習効果は有意に検出することは出来なかった。これには金融自由化の中、情報収集分析能力に乏しい個人部門がその時々に流布される情報に影響されやすく金融情報に対する持続的に学習効果をもたないことによるかも知れない。
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