本年度は(初年度)における黄壁派寺院を通して見た信仰空間の変容過程に関する実証的研究は、国内では黄壁派寺院のみしか見られない天王殿についての調査研究に絞って調査を進めたので、目標の悉皆的な調査はほぼ達成したものと考える。それによると、国内には遺構が7棟残って機能しており、遺跡が2ケ所、古図において確認できたもの11〜12ケ寺である。内、遺構7棟についてはこれまで研究発表のなされたことの無い2棟についての調査および研究発表を既にまとめ終えた。遺跡2ケ所についても1ケ所は既に研究発表済みであり、他の1ケ所は消失前の筆者の調査記録が辛うじて残っており長崎原爆による焼失前の図や写真も収集している。古図による天王殿は全て現地を訪れて実地調査は済まして、天王殿の存在を確認できたものが殆どであるが、唯1ケ所のみ文献調査をのこしている。こうした資料収集を終えて、研究の目標である信仰空間に果たした天王殿の宗教上の機能の問題についての研究発表を、天王殿の所在する国内各地において研究発表を既にしたし、平成8年度中には発表する予定で原稿を纏めることができた。その研究成果について、ここに簡単に3つの時点のみ略述すれば、次のようになる。天王殿の伽藍内で占める位置と立地と向きと掲げられる額や対聯の文言などから、江戸時代前期に創建された長崎の唐寺・崇福寺においては大雄宝殿の方を向いて護法の機能のみが強調されていて従来天王殿の機能とされていた“門"の機能は全く無いことから始まり、寛文8年(1668)における本山黄壁山萬福寺天王殿の出現によって天王殿の機能は俗と聖との境に立つ“門"と“塀"とを兼ねる機能が全国的に普遍化して行くが、幕末に至ると柳川市所在の福厳寺天王殿にみられるように修行する仏教空間を外の俗なる世間から切り離して内に引き篭ってしまうための機能を担って行った、と考えられるのである。
|