本年度(2年度)における黄檗派寺院を通して見た信仰空間の変容過程に関する実証的研究は、禅宗寺院では最も大切な修行の建築空間である坐禅を行う場所における歴史的な展開を研究することである。本山萬福寺や各地方における中枢的な黄檗派寺院すなわち所謂コの字型の伽藍構成を採る大寺院においては、坐禅を打つ専用の禅堂と称する独立した一つの堂宇が存在した。しかし、これらの禅堂で現存して機能しているものは本山を除いて殆ど無い。これまでの研究では坐禅を打つための建物としては黄檗流寺院においては禅堂が指摘されているに過ぎなかった。これに対して、筆者は円蔵寺本堂(愛媛県今治市波止浜3丁目6-12)の調査を手始めにして、かつて全国的に法堂(はっとう)兼禅堂があったことを検出したし、長崎の唐寺(とうじ)の最初期などの伽藍構成はこうした法堂兼禅堂を中心とした伽藍の在り方であったことを提示した。次に、故横山秀哉博士によって仏殿兼禅堂が黄檗派寺院にあることは夙に指摘されていたが、これの始まりが隠元禅師が約7年間禅の在り方を示した普門寺(大阪市高槻市、現在は臨済宗寺院)にかつてあった法堂兼仏殿兼禅堂であるとする資料と考え方を示した。さらに、従来考えられていた様な、坐禅を打つ場所として単に限られた一つの特定の場所ばかりでなく、歴史的には実にさまざまな場所によっていること(例えば開山堂兼禅堂、鐘鼓楼など)が、指摘できた。そして、遂には、黄檗派寺院が大陸の伽藍構成に倣ったところから坐禅を打つにも土間式の建物をもって一般的とされていたのに対して、日本における日常生活の建築空間である住まいの在り方の中に坐禅の修行空間が採り込まれて行き、江戸時代後期から多く創られた所謂"座敷本堂"の床(ユカ)のある通常の生活空間に取り込まれることによって、完全に坐禅は日本的に吸収されたと考えた。そのように、坐禅の修行空間を実証的に捉えた際の、黄檗派寺院の歴史的な展開過程の一理解を提示することができたと考える。
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