約5百ヵ寺以上の黄檗派寺院および寺院跡を尋ね歩いて、現地に信仰空間の在り方を調査した。先ず、「天王殿の建築計画」の研究では、天王殿の伽藍内で占める位置と立地と向きと掲げげられる額や対聊の文言などから、江戸時代前期に創建された長崎の唐寺・崇福寺においては天王殿(韋駄殿)は大雄宝殿の方を向いて護法の機能のみが強調されていたが、寛文8年(1668)における本山黄檗山萬福寺天王殿の出現によっつて天王殿の機能が俗と聖との境に立つ"門"と"塀"とを兼ねる機能として全国的に普遍化して行くことになるが、幕末に至ると柳川市所在の福厳寺天王殿に見られるように修行する仏教空間を俗なる世間から切り離して内に引き籠ってしまうための機能に変容してしまったと考えた。次に、「坐床の設置場所」の研究では、長崎の唐寺(とうじ)の最初期などの伽藍構成および隠元禅師が約7年間禅の在り方を示した普門寺(大阪府高槻市、現在は臨済宗寺院)には法堂兼仏殿兼禅堂が中心的堂宇であることを導き出した。坐禅を打つための建物として、大陸の建築に倣った土間式の建物から始まった歴史は、江戸時代後期から多く創られた所謂座"敷本堂"の床(ユカ)のある通常の日本における生活空間に取り込まれることによって、完全に坐禅は日本的に吸収されたと考えた。最後に「通路空間の配置計画」の研究では、他の禅宗寺院と異なり横檗派寺院での通路空間の重要性を具体的な寺院や建物を通して指摘した。「坐牀をもつ土間式本堂」と庫裏を結ぶ「廊下」が黄檗禅に特異な坐禅の修行形式によるもと考えた。さらに、『』『黄檗清規』の中の「繞仏」などが通路空間としての「廻廊」に成立根拠を与えていることも指摘した。加えて、その他の諸問題を取り上げ、終わりに、今後の課題として江戸時代における他派の仏教寺院における信仰空間との比較研究が今回の研究を通して推進ができることも付け加えておいた。
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