最近のクローン羊の事例などにおいても明らかなように、医学、生物学などの生命科学は専門内部での議論にとどまることなく、その成果が社会的、思想的に外挿されることで社会的波及性をもつ。本研究は、科学内在的に当時の科学の実質的内容を追いかけると同時に、それらの成果が当時の社会の思想的側面にどのように波及していったのかを具体的に調査することを目的とする。この問題設定の霊感源は、筆者が長く研究を続けてきたフランスのエピステモロジーに根ざすものである。 この研究が始まる時点で予定していたベルナール論については、共著者まちの状態で、刊行にはまだしばらく時間がかかる。 平成9年度は黎明期細菌学と黎明期免疫学の研究を主に予定していたが、その後者の研究はすでに開始されたが、前者は依然未完了に留まっている。ただ資料収集は完了した。その代わり、昭和期に活躍した特異な生理学者、橋田邦彦の調査が進み、専門雑誌にその研究成果を発表することができた。また、今世紀の代表的文芸理論家であるバフチンが若い頃、精神分析にどのような対応を示したのかをめぐる論考、さらにヘッケルの生物発生原則が精神分析や解剖学など、周辺領域にどのように受容されてそれぞれの領域で独自の論考の霊感源となっていたのかをめぐる論考を完成することができた。 バフチンのフロイト批判はフロイトの精神分析が社会的観点をもたない点を強くついたものである。ただしそのバフチンの批判自体が、当時のソヴィエト体制のなかにおける教条的な色彩を帯びていた点は否めない。また社会という概念がもつ多角性のため、単にそれを批判に使っただけではその概念が十分機能しないという点を私は主張した。へッケルの生物発生原則は、ヘッケルからフェレンツィの精神分析、夢野久作の小説、三木成夫の解剖学などに意想外の影響をあたえ、単に生物学内部の仮説というだけには留まらない射程をもつことになった。その種の科学的概念の外挿に関する思索を試みた。橋田については、戦前の優れた生理学者兼道元研究者という特異な立場が醸し出す、独特の科学思想を分析し、同時に彼が徐々に戦中の国家体制のなかに組み込まれていく様を分析検討した。
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