本年度は研究初年度であり、基礎的な調査・研究を行った。 文献的には日本の敗戦後、占領軍と旧日本軍とのリエゾンをつとめた有末機関が米軍に提出した、旧軍での化学兵器の生産量を種類毎にまとめた報告書を入手し、分析した。その結果、有末機関の報告書は従来、常石ら研究者によって米国国立公文書館等で発見されていた、米軍文書の元となったものであることが判明した。その意味では、有末機関の報告書は第1級の文書だ。またこの文書の発見によって、民間の化学工場でどんな種類の化学兵器がどの程度の量、および各化学平気の原材料がどの程度の量、どの程度の期間にわたって生産されていたかの概要を初めて正確につかむことができた、と言える。 聞き取り調査としては陸軍の化学兵器工場があった広島の大久野島の元従業員の方々、砲弾に毒ガスを充填していた北九州小倉の元従業員の方々、原材料の一つである砒素の産地、宮崎の土呂久の住民の方々について行った。それらの方々は、旧陸軍での化学兵器生産が1940年から42年にかけがピークであった、という実感を持っておられることが分かった。これは旧軍の資料による生産量の推移と一致している。 また11月から12月にかけて日本の国会議員による、中国における旧日本軍の遺棄化学兵器の現状調査団に顧問として参加する機会があった。中国側は外交部(外務省)および人民解放軍が現地を案内し、また昨年秋に発見された、中身の入っている旧日本軍の毒ガス砲弾を見せてくれた。この調査によって、旧日本軍が生産した化学兵器の量が膨大だったこと、実際に中国大陸に運ばれていたことを実感することができた。
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