日本の古代・中世の畠作に関するこれまでの研究は、安定した畠の検討が中心をなし、当時の生産力と営農形態の差に応じた多様な畠の存在がその視野に十分入っていたとは言い難い。当時の人々は、生産力と営農形態の差に応じて律令体制下においては「園」・「陸田」など、平安中後期以後は「里畠(平畠)」・「野畠」・「山畠」・「山畑」など畠の弁別をおこなっており、これらの認識に基づく多様な畠作の実態の解明が必要である。 本研究は、生産力と営農形態の差に基づき、日本の古代・中世の畠作に関して、歴史地理学的な検討を加えたものである。これまでの史料収集・現地調査・検討によって明らかにしえたことがらは以下のとおりである。 安定した「里畠(平畠)」はもとより、一時的に耕作されてのちに再び野や山に返される、不安定かつ生産力の劣る「野畠」・「山畠」・「山畑」などではあるが、律令政府や鎌倉幕府はその重要性を認識し、生産力と営農形態の差に基づく地目として、「園」や「陸田」、さらには「里畠(平畠)」・「野畠」・「山畠」・「山畑」などの多様な地目を公認していたと考えられる。全国各地の洪積台地や自然堤防などの上で営まれたこれらの畠は、安定した田畠と同様に検見・丈量がなされ、作物に応じた地子が賦課される場合もあった。これらの多様な畠では、冬作物の麦や大根をはじめとして、粟や大豆、さらには陸稲や稗や小豆、蕎麦・桑・麻などの夏作物が栽培されていた。 生産力と営農形態の差に基づいた地目としての「野畠」・「山畠」・「山畑」は、すでに平安時代の中後期には成立していたと想定される。関連する史料は、古代・中世はもとより、近世以後にも残されており、これらの多様な畠は日本の畠作史の上において重要な位置を占める地目であると判断される。
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