関東地方と甲信地方における近世の坂東巡礼の実態と地域差を解明すべく行った旅日記および石造文化財の資料調査を進める過程で、次の様なことがわかった。 関東地方の2〜3の県で行った旅日記の調査の結果、伊勢参宮日記に比し坂東巡礼の旅日記は、著しく残存数が少ない。しかし、巡拝塔が相当数存在することから坂東巡礼は実際には行われながらもそれを記録に残さなかったことが伺える。それは、関東に住む人々にとっての坂東巡礼の札所の存在する関東一帯の地域が、伊勢や出羽三山などに遠隔地とは異なる身近な範囲として意識されていたことの傍証となる。例えば茨城県で収集した4件の坂東巡礼関連の旅日記のうち、坂東巡礼のみを巡ったという旅日記は、1件だけてある。他の3件は、出羽三山・相模の大山参詣・伊勢参宮を兼ねて坂東札所の数カ所を巡るものであった。また埼玉県で採録した坂東巡礼日記には、数カ所の札所を組み合わせながら何回かに分けて行った形跡の伺えるものがある。現在までの研究から、関東在住者にとっての坂東巡礼は遠距離の旅に出る際併せて巡るか、または何回かに分けて巡るべき中距離の旅であったと推定している。今後関東の残りの県についての調査を進めるとともに、甲信地方の旅日記の残存状況とルートを調査して実証していく予定である。 旅日記と並ぶ資料である巡拝塔、道標など石造文化財の所在地および銘文の調査の結果をデータベース化する作業の過程で、坂東巡礼がどの地域で盛んであったか知り得る可能性が出てきた。例えば千葉県で入力できた範囲の巡拝塔は、四街道市、佐倉市で多く、成田市、本埜村、印旛村では少ない。石造文化財の調査は、県によって進展の度合いに差があるが、可能な限り採録していく予定である。
|