関東地方と甲信地方における近世の坂東巡礼の実態と地域差を解明するという目的から、旅日記・納経帳および石造文化財の資料調査を継続し、収集した資料を取りまとめた。 坂東巡礼の旅日記・納経帳の発見事例は少ないが、長野県北安曇郡小谷村にて、文政年間に坂東・秩父への旅日記を記した人物の名が、巡拝塔にも刻まれている事例を確認できた。石造文化財の報告書、市町村史などには巡拝塔について、これを実際に西国・秩父・坂東などに行った人が造立したとする解釈が多いが なかには、 実際には行かなくとも観音信仰への証しとして造立したとする解釈もあるなかで、貴重な事例の発見であった。 石造文化財の調査報告書から、巡拝塔を抽出し一覧表にしていく作業も集計の段階に入った。まだ、多少の数字の動きはあるが、対象地域全体で採録した巡拝塔の数は約3000基にのぼる。このうち、斗長野県のものが約1000基を数え、他県に比し抜群に数が多い。県により石造文化財の調査状況が異なる事を加味してもこの事実は変わらないであろう。特に、伊那市周辺、小谷村、長野市、佐久市周辺などが多く、観音巡礼の中心地が存在していたのではないかと思われる。これらの地域からの巡礼は、ほとんどが西国・秩父・坂東の百観音を巡っており、西国とか坂東などへの単独の巡礼は少ない。また百観音を巡礼した人のうち2割から6割は、さらに四国八十八ヶ所巡礼も行っている。西国のみへの巡礼の傾向がやや強いのは伊那市であるが、伊那市からは、四国への巡礼者の割合も高い。また、長野市は、百観音に四国を加えた百八十八ヶ所巡礼が盛んであったようである。 なお、昨年度以来、巡拝塔に出羽三山への参詣を刻む例を追跡してきたが、その事例は、千葉県北部から茨城県、埼玉県などに多く、やや離れて群馬県にも若干見られることが明らかになった。
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