現代社会は、ますます複雑化し、分散化しているが、情報技術の進展はその社会の変容とパラレルに進行している。1970年頃から大量生産-大量消費を支えた調整様式は限界になり、国家は財政赤字に直面し、企業や政府に替るボランティア団体、NPO・NGOが注目を浴び、これまでの価値観に異議申立する新しい社会運動が登場してきた。これまでの調整の中心であった国家、大企業、労働組合、政党、マスメディアは、これらの新しい要求に応えることができなくなった。国家はこれまで公共的問題について独占し、それを根拠に情報を独占してきたのであるが、そのあり方が市民から疑問が持たれるようになったのである。インターネットのような情報ネットワークは、新しい公共性(筆者はこれをインフォーマルな公共性と呼んでいる)として、議会やマスメディアをチェックすることで、重要な意味を持つかもしれない。しかし、他方で、日本の場合オウム事件や阪神身大震災の事件では、国家の危機管理体制、情報の収集力が問題となり、国家の重要性が論ぜられる。ここでは情報技術は管理技術として使われる。重要なのは、インターネットなどの情報技術、情報ネットワークが社会的にどのように利用されるかであり、それがもたらす意味は、こうした社会の変化の中で位置づけられなければならない。その技術の利用形態が社会関係の中で規定されるからである。このことについては近日創刊される予定の『社会と情報』といる雑誌の「インターネットの社会学」で、論じた。 今後、インターネットのようなグローバルな情報技術がますます進展するもとで、また国家と市民、国家と地域との関係で大きな変化が生じているもとで、国家がどのような役割を果たすべきかが、また情報技術をどのように利用すべきかが問われているといえる。
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