十七世紀中葉、土佐国と伊予国で山野河海をめぐって幕府評定所で争われた争論を取り上げ、分析した。現地調査・検討、絵図・文字史料の史料調査を行い、現状では、断翰となっている絵図を復元、検討した。 1 同裁判は、幕府評定所における論所(土地や用水をめぐる訴訟)裁判の転換点に位置づけることができる。従来曖昧であった論所公事における、当該領域を支配する領主身分と具体的用益行う百姓身分の関係が、この裁判により、確定された。 2 同裁判の時期には、双方の領主間で合意形成のできない争論については、第三者の領主の仲介による「御扱」、領主名で公事を提起する「直公事」、村が主体となって公事を起こす「百姓公事」といった解決の可能性が並存していた。同公事のなかで、論所については「直公事」が認められないという方針が明確に出された。 3 同時に、この後近世を通じてもっとも一般的な形態となる「百姓公事」の内実が明確化された。 まず、「百姓公事」には、領主階級と個別的人格関係を持つ「奉公人」が公事人として出廷することを原則的に禁じた。つぎに、近世国家に先行する国制のなかで、天皇権威と結びつき国家的権能により決定されると観念されてきた国境(くにざさい)を問う裁判において、「地下人証文」を証拠として採用することが明示された。 4 以上のような、論所における「百姓公事」の明確化は、中世末から近世にかけての、在地の〈領域の領有〉とも表現し得るような状況の反映であった。
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