本年は、天皇の発する言葉である宣命を素材にとりあげ、そのなかで「法」に言及しているものを検討することで、8〜9世紀の律令制国家における天皇と法との関係を考察した。 『儀式』や『朝野群載』には、皇太子を立てる時の宣命文の模範例文に「法の随にあるべき政として、某親王を皇太子と定め賜ふ」という表現があり、天皇は皇太子を「法」に従って立てるとのべることになっている。また立太子の時だけでなく、恒貞皇太子を廃する際(842年)の山陵への告文では「食国法の随に」廃太子するとのべている。このように、立太子や廃太子の時に「法に随に」とのべることは、天皇が「法」を守っていると表明することであり、それらの行為を「法」によって正当化しようとするものであったといえよう。 『儀式』などとほぼ同じ宣命は、山部親王(桓武天皇)立太子宣命(773年)でのべられており、さらに「法の随に」皇太子を立てるとの文言は、他戸親王立太子宣命(771年)までさかのぼる。しかし白壁王(光仁天皇)立太子宣命(771年)には「法」はふれられておらず、それ以前の立太子については宣命がみえないが、大炊王(淳仁天皇)立太子漢文詔には「法」はでてこない。従ってこの表現が始まる画期は光仁朝であると考えられる。 その契機は称徳朝の残した課題であったと思われる。称徳天皇には嫡子が継承すべしという血統の原理と、天が認める人物が皇位につくべしとするいわゆる天命の原理との、矛盾する原理が併存してした。そこで皇太子を定めないでいたために皇位継承資格者をめぐって疑獄事件が多発し、多くの皇親や貴族が罪された。光仁朝はこれを解決する概念として「法」を用いたものと考えられるだろう。 成果の一部はすでに公表した。次は、天皇即位宣命の分析にとりくみたい。
|