本研究の目的は、アメリカの対日占領政策全体の中での、女子高等教育改革の位置付けを、より明確化にすると共に、占領前期から後期への高等教育政策の推移が、女子教育の分野ではどのような形で実行されたかを解明することにあった。 女子教育改革に対する占領軍の考え方の推移を明確にするために、占領教育政策形成期(1943-45)、占領前期(1946-48)、占領後期(1949-51)のそれぞれの時期について、アメリカ側の日本女子教育に関する理解および改革の主旨を、原資料に基づいて検討した。占領政策形成期については、国務省の下部機関等で作成された教育関係の政策文書のうち、女子教育に関わる部分を分析した。占領前期・後期についてはGHQ民間情報教育局の文書、および女子教育改革に関わった数名分の個人文書を使用した。 資料分析の結果、1)占領教育政策形成期、占領前期、占領後期の3つの時期区分によって、女子高等教育改革に関するアメリカ側の理念に相違が見られること、2)女子高等教育の現場出身の専門家と、それ意外の占領軍係官との間には顕著な姿勢の違いがあること、3)占領後期には共産主義に対する占領軍と日本政府の警戒感が、女子高等教育にも反映されて行ったこと、等の所見が認められた。 さらに、女子教育問題をめぐる日本側の対応、アメリカ側との関係についても、国立教育研究所所蔵の資料等によって分析を進めている所である。民間情報教育局が、文部省と教育家たちとの間に入って利害調整を行ったこと、教育家たちは占領軍の要望に対して受け身ではなく、むしろ積極的にイニシアティブを取ろうと働きかけたことが分かっている。これらの所見を基に、現在論文を執筆中である。
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