資料を収集・整理した結果、次のような現象に気付いた。むろん、これらはデータ活用のごくささやかな成果に過ぎず、今後さらに多様な活用が見込まれる。 1、平成六年度の和歌文学大会で口頭発表した「道長と屏風歌-長保三年東三条院詮子四十賀屏風を中心に-」を、和歌資料・古記録等でさらに補強・修正。(雑誌に発表予定) 2.雲葉集885番詞書「中宮の御屏風に…」とある長能歌は、松に梅という取り合せを詠んだものだが、その絵柄は集成した屏風歌資料によると長保元年彰子入内にしか見られない珍しいものであり、詞書の「中宮」を考え合わせると、同の歌を考えられる。また、後拾遺集47番歌(長能集II73番)も詞書に「中宮」とあるわけではないが、春の狩の絵柄が微妙な点まで彰子入内屏風と一致する上、同屏風は後撰集時代に描かれた名品だったのだが、屏風歌資料により判明する春の狩の絵柄の流行も後撰集時代である。両歌の存在は、公卿の詠作で占められていたはずの同屏風に長能という専門歌人の代作があった可能性を示し、公卿の屏風歌詠作の在り方が問い直される。(論文集に発表予定) 3.古今集時代の屏風歌は、ストレートに画題を詠むよりは、絵と合せてはじめて理解可能という詠み方が特徴的であった。しかし、後撰集時代になると、鷹狩であれば鷹を、子日の小松引きであれば松を詠み込むようになり、絵の説明としての歌に変質する。それは特に屏風歌ならではの題材に著しい現象であり、屏風歌の役割がより装飾的になってきたことを伺わせる。(投稿準備中)
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