本年度の研究は、朝鮮半島において「裨補林」と呼ばれる、風水地理説の論理で説明されたり、そのために保存されてきたとされる樹林地と、沖縄において「抱護林」「風水山」と呼ばれ、やはり同様に説明されうる樹林地について、そこにはたらく風水的な論理とそれが樹林地の保全に果たす役割について明らかにした。具体的には、まず日本国内において、植民地時代の林学・農学関係の文献資料・地図類の収集をとおして、朝鮮半島の裨補林について明らかにした後、沖縄の現地調査を行い比較研究を行った。 朝鮮半島の裨補林については、朝鮮総督府林業試験場の嘱託であった徳光宣之が、朝鮮時代の文献によって著名な201カ所の林藪(樹林地)をあげ、さらに現地調査を行い、『朝鮮の林藪』(1938)を著している。それによると、朝鮮時代の文献に掲載されている201カ所の林藪のうち、当時128カ所の林藪が存在していた。このなかには風水の論理で説明されてきたものがかなり含まれている。そこでは、都邑や村落の「水口」とよばれる水の流出する箇所や、山が低くなっている箇所から「気が漏れてしまわないように」、あるいは「不吉なものを打ちけすために」という論理で植林あるいは樹林地を保存するという例が多かった。朝鮮半島南東部の慶州では、城内の官庁の背後に1600年代から日本植民地時代にいたるまで「裨補藪」が存在していたことが、植民地時代の土地調査に伴う地籍図などから明らかになった。 一方、沖縄においては、蔡温の植林政策との関連で「抱譲」あるいは「風水山」とよばれた樹林地が多くつくられ、現在も八重山、沖縄本島北部には残存していることが確認できた。しかしそこにはたらく風水の論理、あるいは樹林保全へ風水の役割を明らかにするにはいたらなかった。 しかし両者の共通点として、「気をもらさない」周囲を囲まれた環境を作り出そうとする点、風水という近代以前に用いられていた地理思想に、自然環境の良くない部分をを補足しようとする思想があった点、また開墾が急激に進んだ時期に、植林を行う際にそのような論理が用いられた点をあげることができる。
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