本年度は、昨年度に引き続き初期日本哲学界の動向をうかがわせる資料収集を続けた。そのために、京都大学、石川県宇ノ気町西田幾多郎記念館、東京大学図書館を訪れ、西田の蔵書、読書傾向などを調べた。特に西田における漢学的教養と人生問題に関する西洋哲学的感心との接点が注目された。これが地平に依拠しつつ生きる時代を理解しながらそれを適用して時代に影響を与えるという影響作用史の日本近代哲学発展史における具体的姿である。それを明らかにするために、解釈学理論と無の関係についての研究を進めた。今年度は特に、解釈学理論そのものに属する無の理論への転化可能性を追求した。それが「無としての地平」というテーマである。日本近代哲学が西洋哲学の受容によって西田哲学、京都学派に至る無の理論を確立した過程を解釈学的に説明するため、解釈学理論も無の理論を取り込んでいなければならない。さもないと日本近代哲学を内在的に捉え直すことにならないからである。解釈学的無の論理の代表者はハイデガ-だが、前年度の研究を受け、今年度はハイデガ-が十分自身で語れなかった無の生起、無が無として現れること(Nichten)の概念を使って、解釈学的経験の制約である地平が単に存在者として現存在の存在の制約であるばかりでなく、無として生起するもの(Nichtendes)として存在者を制約することを明らかにした。その意味で存在者は理解されたものとして単に存在者であるのではなく、無として生起するもの(無者)でもある。解釈学が存在者を無者としても捉え、現存在の動態的世界が半ば存在者、半ば無者であるならば、日本近代哲学の無の論理は絶対弁証法などという独自の論理衣装をまとう必要がなく、解釈学に翻訳され得ると言える。来年度は、具体的に明治期の近代化の過程で西洋哲学がどの様に日本の精神風土という地平の上に受容され、西洋哲学が自覚することのなかった「無としての地平」を自覚することができたのか、その理由を明らかにしたい。
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