本研究は、「フィリピン人(Filipino)」の形成に中核的な役割を果たした中国系メスティーソ(混血人)が、18世紀中葉以降、植民地社会の正統な構成要素として顕在化するに至った理由を、当該期のスペイン領インディアスを貫く統治政策の変更に求め、フィリピン政庁がその一環として中国人移民に対して採った新たな統治政策に対応して、中国人移民社会が中国系メスティーソを生み出す母胎として、「脱中国人化」すなわち「カトリック化」を遂げた歴史過程を明らかにすることを目的とした。 冒頭で述べたように、中国系メスティーソ興隆の背景には、この時期のスペイン領インディアスを包摂する植民地統治政策の転換がまず挙げられる。しかしながら、なぜこの時期フィリピン政庁は、中国人移民がカトリシズムを受容することを前代に比して強く求めたのか。確かに、植民地支配早期より、諸島在住中国人への布教活動は進められたが、必ずしも彼等のカトリシズム受容を居住許可の要件にしたわけではなかった。この点について一つの可能性を提示したい。それは、すなわち、18世紀に入って、「典礼問題」があり、宣教師の中国進出の可能性が事実上なくなった結果、中国布教の足掛りとして、中国人を改宗させるという時代は終わっていたという点である。かわって、中国人移民を現地社会を構成する一要素と捉え、スペイン領インディアスを正統に構成する住民の資格要件として、フィリピンに定住を希望する中国人に対してはカトリシズムの受容が義務づけられたと考える。これがアランディア総督が非カトリックに限って中国人を追放した背景であろう。いずれにせよ、定住のための資格要件として、カトリシズムの受容が求められたことが中国人移民社会の変容を促進し、その土着化を促進し、これがその後の中国系メスティーソの興隆に密接に関連している。この点は、今後さらに研究されねばならない。
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