国民銀行設立運動における「在来」金融業者の役割について研究を進め、おおよそ下記のようなことが明らかとなった。 今世紀初頭、イランの財政は危機的状態にあった。イラン政府はイギリス=ロシア借款に頼ろうとしたが、国民議会はこれに反対し、同時に、国民議会の認可なしに外国から借款を受けることを禁止する決議が採択された。 このような状況の下、国民銀行設立案が国民議会に提出された。主導的役割を果たしたのは、アミ-ノッザルブやアルバ-ブジャムシ-ドといった有力「在来」金融業者の代議員であった。 1906年11月末、国民銀行設立の布告が発せられ、国民に対して出資が呼びかけられた。多くの国民が資金を出したが、必要な額は集まらなかった。 国外在来の人々(インド在住のゾロアスター教徒?)の出資を促すため、1907年2月、設立利権の詔勅が発せられた。この利権には、同行が、独占的発券(イギリス系銀行への利権期間満了後)・鉱物採掘・鉄道建設などの権利を有することが明記されていた。 同年同月15日、宰相と蔵相の臨席の下、同行設立会議が開かれた。 このような設立の動きをイギリス・ロシアは快く思っていなかった。資本金の調達も順調に進まなかった。 このようにして、1908年初めまでには、政府および国民会議において同行に関する話題は出なくなった。
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