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2007 年度 実績報告書

清朝のアラシャン=ホシュート部支配と多民族性に関する研究

研究課題

研究課題/領域番号 07J01911
研究機関筑波大学

研究代表者

斉 光  筑波大学, 大学院・人文社会科学研究科, 特別研究員(DC1)

キーワード清朝 / アラシャン=ホシュート都 / ジューン=ガル部 / 青海ホシュート部 / ダライ=ラマ / ロブザン=ダンジン / 康煕帝時代の旧臣 / 年羹堯
研究概要

報告者は,平成19年度において,(1)「アラシャン=ホシュート部の清朝服属と西北情勢」の論文を執筆して投稿し,次の点を明らかにした。17世紀後半,オイラト=モンゴルの一派であるアラシャン=ホシュート部は,ジューン=ガル部との権力紛争により,東へ逃亡し,康煕16年(1677),清朝の領内に侵入した。そして,清朝は,青海ホシュート部・ガルダン・ダライ=ラマ五世と交渉しながら,康煕36年,ガルダン勢力の敗亡とダライ=ラマ五世園寂情報の公開にともない,アラシャン=ホシュート部を清朝に服属させた。(2)8月4日,社会文化史学会において,「清朝の『ロブザン=ダンジンの乱』鎮圧とアラシャン=ホシュート部」と題する口頭発表を行なった。清朝は,服属した後のアラシャン=ホシュート部を積極的に西北辺疆に対する戦争に利用した。その中で,康煕帝の基本方針は,なるべく清朝の国力を浪費せずに,諸勢力間の関係を利用して,西北辺疆の安定を図るというものであり,チベット進出において,婚姻関係を結んだアラシャン=ホシュート部の第二代ジャサク王公アボーを重用した。しかし,雍正帝は,即位直後,康煕帝時代の旧臣を留置するが,自分の側近年羹堯に西北辺疆の軍事を委ねた。本報告は,康煕帝時代の旧臣と年羹堯らの青海ホシュート部に対する態度の相違点,雍正帝の考えから,雍正初年の清朝の対モンゴル方針を検討し,そして,このような方針が雍正年間における清朝の対アラシャン=ホシュート部支配にどのような影響を与えたのか,その具体像を解明した。(3)8月6日から9月3日まで,中国で史料・現地調査を行なった。まず北京で,中国国家図書館・北京アラシャン王府・中国第一歴史〓案館で「アラシャン文史資料」「雍正朝満文〓批奏摺」の調査を行ない,さらに,内モンゴルのアラシャン盟に行って,アラシャン左旗〓案館で「清代アラシャン旗ジャサク衙門〓」の史料調査を行なった。(4)11月25日から12月15日まで,中国に赴いて,北京大学図書館・中国第一歴史〓案館で「撫遠大将軍允〓奏稿」・「雍正朝満文〓批奏摺」の史料収集を行なった。(5)「清朝の『ロブザン=ダンジンの乱』鎮圧とアラシャン=ホシュート部」の論文を『社会文化史学』雑誌に投稿した。以上の業績は,いずれも清代アラシャン=ホシュート部内外の問題を研究するための基礎なるものになる。

  • 研究成果

    (1件)

すべて 2007

すべて 学会発表 (1件)

  • [学会発表] 清朝の「ロブザン=ダンジンの乱」鎮圧とアラシャン=ホシュート部2007

    • 著者名/発表者名
      斉 光
    • 学会等名
      社会文化史学会
    • 発表場所
      筑波大学東京キャンパス
    • 年月日
      2007-08-04

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公開日: 2010-02-04   更新日: 2016-04-21  

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