本年度の課題は、ドゥルーズの「動物的他者論」から出発し、現代哲学の「生態学的パラダイム」へと視野を広げ、その政治的帰趨を問うことであった。 1そこで、予備考察として、『意味の論理学』(1969年)における「物体的」(corporel)次元について考察した。ドゥルーズにとって「心」とは、閉じられた「内面性」ではない。心は、その主体が営む「生態」の、その「物体的」な「環境設定」によって生成する。ドゥルーズ哲学には「生態学的」な心の理解があり、それは「統合失調症」や「アルコール中毒」、「身体障害」の分析によって具体化される。以上の結果は、表象文化論学会第3回大会で公表された(発表1)。 2続いて、精神分析に対するドゥルーズの態度を、デリダやマラブーの思想と比べつつ検討した。『ザッハーニマゾッホ紹介』(1967年)における心の理解は、マゾヒズム的「受動性」を本質とする。ある「環境設定」における他者との関係が自己を触発し、そこで心が受動的に「個体化」する。以上に関する論文を『現代思想』誌に掲載した(論文1)。 3最後に、「生態学的パラダイム」の政治的帰趨について考察するため、ドゥルーズとハイデガーを比較した。一方でハイデガーは、人間は「世界を作る」のに対し、動物は「世界が貧しい」と規定する。人間は、コミュニケーションの地平をなす「全体性」をもった世界を作るが、動物世界は、それぞれの本能的関心によって分断されている。ハイデガーはこうして、人間のみが、普遍的共同体を構築する可能性を持つと見なす。ところがドゥルーズは、ハイデガーの主張とは逆へと向かう。ドゥルーズは、むしろ動物的に分立する諸世界が、かろうじて互いに共生していくプロセスを「動物への生成変化」と呼び、そこに民主的共同性のミニマムな可能性を見出した。この結論は、台湾中央研究院のシンポジウムで公表された(発表2)。
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