近世畿内における「かわた」(穢多)集団は、百姓村の中に小規模に集住する関東とは異なり、人数の多いかわた村として存在していた。これまでかわたの研究は、身分的な側面(皮革・草場・差別など)にのみ注目する傾向があったが、本研究ではさらに彼らの畿内における存在形態、すなわち「村」の側面から検討することで、集団としてのあり方を総合的に捉えなおすことを目指している。 今年度はこれまでの研究をとりまとめ、学位申請論文「近世和泉国におけるかわた村の研究-泉郡南王子村を中心に-」を提出した。その内容は、(1)和泉国泉郡南王子村についての実証研究と、(2)先行研究整理と本研究の位置づけからなる。09年度の取り組みとの関係について以下述べる。 (1)は17世紀から19世紀後期にいたるかわた集団の成立・展開、ならびに地域社会との関係を明らかにすることを目的とする。このうち地域社会との関係について重点をおき、08年度に検討を行った信太郷七ヶ村と南王子村との争論を論文化するとともに、その原因の一つである南王子村における人口増加と周辺村での人口停滞、それに由来する耕作請負についても分析した。また、かわた身分特有の斃牛馬処理権と草場についても、場先の村々との関係や南王子村内での権利関係に注目して検討を行った。 (2)では、これまでの先行研究を整理した上で、南王子村の個別分析を通じて、a行政的な存在形態がかわた村の内部構造を規定すること、b村政レベルと生活共同体レベルの統一的把握の重要性、c周辺地域社会との生活関係に応じた諸レベルの分別の3点について成果と課題をとりまとめた。
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