20世紀初頭のアメリカ合衆国では、19世紀第4四半期以来追求されてきた精神薄弱者の施設への総収容が困難となっていた。施設の増設・拡張にもかかわらず、過密と大きな入所需要は継続し、施設水準の低下が懸念された。何より精神薄弱者の施設総収容は資金的に困難であった。そこで一部の施設長は、入所需要に応えるべく、軽度級を主な対象として、教育・訓練の後にコミュニティ生活を仮退所という形で試行し、成功をおさめた。さらに指導監督を制度化することで、一部の精神薄弱者の通常のコミュニティ生活が、施設経営の目標となる。しかし、半面で、これまでの精神薄弱者施設が防止しようとした反社会的問題が、少数ながら生じたことも事実であった。これに対して、優生学に影響を受けた施設長は、異なるコミュニティ生活を構想した。それは、退所者に断種を行ったうえでコミュニティ生活を行う計画であり、これらの精神薄弱者は、結婚等は通常の市民と同等であったが、当初は遺伝・家系説によって、ついで養育困難であるとの社会的・経済的理由から夫婦だけの家族の形成と維持が彼らに求められ、出産と育児は拒絶された。以上の2つのコミュニティ生活には、精神薄弱者の適応・労働能力、その教育・訓練による施設での育成、親と当人のコミュニティ生活の願望、そして彼らの安価な未熟練労働力への需要が必要であった。これらの条件が欠けた州では、施設内での生活が継続する精神薄弱者に断種をして、異性との交際を含む通常の生活の享受を試みた。
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