研究概要 |
美術学習における自己表現の変遷を、大正期の美術教育運動を中心に歴史的に考察した。 自己表現を目的とした、自由画教育運動は、大正8年に、山本鼎を中心に始められた。自由画教育運動以前の美術教育においては、もっぱら、手本を臨画、模写する授業であったため、自己表現は、主たる目的にはなっていなかった。山本鼎は、自由画教育運動を通して、対象を正確に描写することよりも、学習者が自己を表現する事の方が重要であると主張した。この運動は、従来の美術教育に飽き足らなかった教師たちによって受け入れられ、全国的な規模で、急速に拡がっていった。自由画教育運動は、美術教育の指導に大きな影響を与えたが、山本鼎の主張は十分には理解されなかった。 奈良女子高等師範学校付属小学校の横井曹一は、主事・木下竹次の指導の下に、図画と手工を合科的に扱い、「美術学習」を実践した。山本の実践と似ていたが、より実践的であった。松本女子師範学校の藤岡亀三郎は、『新定畫帖』を心理学的に解釈することにより、自由画教育を理論化しようとした。また、島根県仁多郡横田町馬木村立小学校訓導の青木寛三郎は、山本よりも早くから、葦田恵之助の綴り方の指導法をもとに、児童の日常生活を、写生をもとに想像して描く「想畫」という独自の指導法を確立し、実践していた。 しかし、上記3人を含めて、山本鼎が提案した、自己表現を通して、美術の基本を習得し,学習者各自が独自の表現を確立することが重要であるという主張は、十分に理解されなかった。美術学習における自己表現の重要性を説いた山本鼎の主張は、戦後の民間美術教育運動に引き継がれ、現在の美術教育の中にも継承されている。
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