西田幾何多郎が科学哲学の領域に本格的な形で足を踏み入れるのは、1930代半ばから始まる後期、すなわち晩年の10年間のことである。この時期、西田は「行為的直観」および「歴史的身体」の概念を基盤に、歴史的世界における身体的実践という観点から科学的認識の基礎づけを行うことに専念する。それは「科学の危機」に端を発する西欧の論争状況に対する、いわば西田哲学の立場からする応答と言うべきものであった。 まず「数学の哲学」の分野において、西田は一連の数学基礎論論争を通覧しながら、ラッセルの論理主義を数学的な「直観」に対する洞察を欠いているという理由で、またヒルベルトの形式主義を相対主義への傾斜のゆえにいずれも退ける。ブラウア-の直観主義には一定の評価を与えているものの、西田はその「基礎的直観」を「行為的直観」で置き換えることを提案する。しかし、行為的直観はもともと身体を媒介とした技術的実践に基礎を置いた概念であり、それを数学的認識に適用することは必ずしも成功していない。 それに対して「物理学の哲学」の分野では、物理学が実践的操作を通じて研究対象に働きかける学問であることから、行為的直観の概念がきわめて適切に機能する。西田はブリッジマンの操作主義の立場に依拠しながら、「身体的自己の作為を離れて、物理的世界というものはない」と主張し、この観点から量子力学の認識論的意味を探究するのである。そこから西田はマクスウェルの形態構成の概念を緩用して物理現象一般を「形から形へ」という形の変化として据え直すことを試み、基体概念を排却して「現象即実在」と表現される徹底的実証主義の立場へと到達する。この西田最晩年の科学哲学は斬新かつ独創的なものであり、「形の存在論」および「形の認識論」と名づけられてよい。その内実を解明することは今後の課題として残されている。
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