本研究は、清末中国における伝統的世界像の変動を、1861年に総理衛門が設置されて以降の洋務知識人の西洋体験への考察を通じて、明らかにしようとするものである。当初は上記の課題を、1866年の斌椿使節団への参加をはじめ豊富な西洋体験の持ち主である外交官張徳〓(1854-1921)を通じて明らかにすることを目指していた。しかし研究の進展に伴い、題目を「清末初代駐英使節(1877-79)における西洋体験と世界像の変動-文明観と国際秩序観」と改め、張徳〓が初代駐英使節(l877-79)として英国に駐在した際の初代公使郭嵩〓(1818-1891)と副使劉錫鴻(生本年不詳)にも研究対象を広げ、伝統的世界像を構成した中華文明を普遍視する文明観、およびこの文明観に基づき中国を文明の中心と見る国際秩序観が、三者において如何に変動したのかを検討することとした。最終年度の今年は、この間の研究の論文化を進め、全5章のうち第3章までをほぼ書き上げた。 論文の要旨は次の通りである。まず旧型知識人で西洋化にも消極的だった劉錫鴻の場合は、伝統的文明観および伝統的国際秩序観に基本的に変化は見出せないものの、西洋への評価は、少なくとも従来の野蛮な「夷狄」という評価からは大きく変化したことが確認された。次に旧型知識人ながら西洋化に積極的だった郭嵩〓の場合は、旧来の伝統的国際秩序観は西洋を文明の中心と見る新たな国際秩序観へと転換するが、文明観においては結局のところ伝統的文明観が辛うじて維持されたことが明らかとなった。更に張徳〓においては、西洋中心の国際秩序観が受容されるとともに、中華文明のみを普遍化せず中国と西洋それぞれ固有性の文明を見出そうとする文明観の萌芽が、形成されつつあたとの見通しを持つにいたった。本研究はまだ未完成であるが、こうした見地は従来の研究を補う新たな視点を提供し得るものと考えている。
|