民国期五四から五四退潮期を中心に30年代あたりまでの思潮を見直す作業の一環として中国近代の国民国家としての自己規定、つまりナショナル・アイデンティティのプロセスを人種観、「保国」「保種」の観点から分析を試みた。具体的には当時、受容され始めていた進化論、とりわけ社会進化論の究極のかたちともいうべき「優秀な黄色人種」の創出に用いられた擬似科学としての優生学に関する言説に焦点をあてた。 まず、康有為に顕著にみられた社会進化論的な人種のランクづけは、日本の内村鑑三の『興国史談』、また優生学の走りとでもいうべき湖南の易鼎の「合種」論も福沢諭吉門下の高橋義雄の「日本民族改良論」(1884年)あたりがそのソースだということが分かり、李大〓らマルキストにてもまた日本の優生学から学んでいることが分かった。総じて潘光旦のような専門の学者が欧米から直輸入したのを除いては、日本経由で優生学が広まっていったといえる。日本経由ということでは、日本サイドの研究もあまりないことが分かったので、今後の課題となりうる。 また主に潘光旦の保守性を批判した周建人の優生学観、その兄の周作人のより進歩的かつ女性尊重的な立場および魯迅の社会主義に近寄ったユートピア志向と優生学との親和性が看取された。 さらに、そうした優生学的な発想は、国民国家の新たな「家庭のモデル」として組み込まれて行った様子が、当時としては生活様式等の主張において最先端をゆく雑誌『少年中国』等からみてとれることが分かった。この点はジェンダー、社会的性差およびセクシュアリティの問題が優生学を通してナショナリティ次元の問題に組み込まれることを示唆していて、とりわけ興味深い。
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