本年度はまず「形式」にまつわる概念の変遷の概略をつかむことができた。芸術の「内容」と「形式」の対立は、古くはヘレニズム・ローマ期の文芸論争にみられた。それは、詩の思想内容(プラグマ)と言語形式(レキシス)のどちらを重視するかの問題でり、ひいては知性と感覚との対置だった。モダニズムの美術批判における「フォーマリズム」も、一般に「内容」を軽視して「形式」だけを重んじると考えられがちである。確かに、例えばハーバート・リ-ドは、造形芸術に関しては「物理的な諸要素」の分析を理論上は勧めていた。ロジャー・フライやクライヴ・ベルから継承した考え方である。だが、実際のリ-ドの批評は、むしろ「詩的心情」に重きを置くなど、理論と実践の間に齟齬があった。そもそも知性や精神性を欠いた感覚だけで芸術を真に享受することなど不可能であろう。 「形式(フォーム)」とは本来、「内容」を入れる静態的な容器ではない。例えば、アリストテレスの言う「形相(エイドス)」の語は、「質料(ヒューレ-)」に対置され、質料を生成変化させる「能動的な形成原理」であり、また、生成物の本質の定義にさえあった。こうした能動的な「形相」の所在が、素材に「かたち」を与える人間の側により引きつけられ始め、プロティノスの「内在的形相(エンドン・エイドス)」やシャフツベリの「内的形式(インワード・フォーム)」を経て、やがてカントら主観主義の台頭とともにさらに人間に内面化され、クローチェにたっては「直観」が即「形式」となる。美術史が様式史として語られ、造形芸術が視覚的形式の問題となっていくモダニズム期になると、芸術の「内容」とは常に「形式的内容」とみなされ始め、むしろ「形式」と「内容」とは分離しがたくなったのだといえる。ロジャー・フライら、この時期の美術批評家たちも、視覚的形式を通して超感覚的・精神的なものに向かっていたのであり、決して「内容」を軽視したのではないといえる。
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