平成8年度は、もともと弁護士であったベッカーが、何故に教育問題にかかわり、次第に教育政策家となっていくことになったのか、この間の背景を明らかにすることを研究課題としていた。研究の結果明らかにできた主な知見は以下の通りである。 (1)ベッカーの幼友達で、ドイツ敗戦後、田園教育舎ビルクレホ-フ校の校長となったゲオルク・ピヒトが、同校の法的側面での援助をベッカーに依頼したことが、教育政策家ベッカー誕生の端緒となった。特に、ベッカーはピヒトと連携して、1949年のボン基本法の私立学校条項の法制化である私立学校法の制定に尽力した。20世紀初頭の改革教育運動に根ざした私立学校(田園教育舎、シュタイナ-学校など)の自由で創造的な教育活動がベッカーの教育思想の根底を形成することになり、この基本理念はドイツ教育審議会での活動に象徴されるベッカーの教育政策論を方向付けることになった。 (2)ベッカーは、私立学校の法的援助活動をする一方で、フランクフルト社会研究所の法律顧問も務め、特にその所長であるホルクハイマーから思想的影響を受けた。ベッカーは、伝統的な狭義の教育学研究の枠を出て、学際的な教育研究の樹立を目指して、マックス・プランク教育研究所を創設(1963年)し、さらにこの研究所の活動はドイツ教育審議会の勧告を方向づけることにもなった。こうした彼の教育政策家としての原動力の背景には、ホルクハイマーを中核とするフランクフルト学派との知的交流があったのである。
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