1.「二重学年制」は、1909年(明治42)の小学校令施行規則の改正によって、制度的に可能となった。初年度にこれを実施したのは、全国で4府県7校(7学級)であった。その7校中、4小学校だけ特定することができた。 2.その後、これを実施する府県と小学校は必ずしも増加せず、制度が廃止される1941年(昭和16)までに延べ12府県で実施されたに過ぎない。同一年度における実施校数の最大は、1926年(大正15)の16校であった。その中には、私立成城小学校と官立女子学習院が含まれていたことは、注目すべきことであった。前者は17年間、後者は9年間実施した。公立では新潟県と富山県で13年間実施されたのが最長であった。 3.「二重学年制」が普及しなかったのは、これが一学年2学級編成以上の大規模校でしか実施出来ない性格のものであったこと、設備増や教員増等の条件整備を伴わなかったこと、上級学校との連絡に不利であったこと、転校等を含め実務的にも煩瑣であったこと、4月一斉入学が全国的に定着していたこと等の理由に因るものであった。 4.この制度の導入がやや唐突であったことも一つの問題ではあったが、これはドイツの学校管理・学級編成論の雁行級(Parallelklasse)を移入したものであったが、日本の事情としては義務教育年限の6年制化に伴う就学率低下防止の狙いがあった。 5.その後、昭和に入ると中等学校における半年進級制と結びついて、新たな位置づけがされ、教育審議会でも審議されたが実現するに至らなかった。
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