境界は、人間にとって、森羅万象を秩序をもって認知する上で不可欠な要素である。しかし人種に関していえば、境界の位置は、近代においてイデオロギー的には、本質的差異を区分する線として固定されてきた。他方現実には境界は絶えず移動し、また越境可能でもあったのであり、、両者は必ずしも呼応関係にはない。 イデオロギーとしての人種の境界は、17世紀に芽生えた人種分類論が、気候の相違と関連づけ空間的境界と対応させて身体的相違を捉えていたのが、19世紀末までには絶対的なヒエラルキーを伴うものへと変化した。その舞台の一つの中心がアメリカであったことは言うまでもない。 アメリカにおける人種のステレオタイプは、イデオロギー的境界に閉じ込められた表象であるが、その境界でくくられた範疇の擬似的中心を確固たるものとするために、マーカーが反復的に使用される。これらのマーカーは、肌の黒さであり、メイドとしての職業であり、鶏泥棒としての行動パターンである。それにより、本質的差異は再確認され、あるいは新たなる類の差異を生み出す。 ステレオタイプは単に皮膚の色で分けられた人種カテゴリーのレベルで存在するのみならず、人間の認識分類に深く根ざした形態をしばしばとるが、それは社会階層序列化やオリエンタリズムの基盤となるものである。 本研究におけるアメリカの第二次世界大戦前の広告を題材とした分析では、マイノリティは性差や年令と関係して特定の役割を担うように描写されていたり、ステレオタイプ的な顔の表情に人種の境界が見られたりした。しかしマイノリティにきせられたイメージは単に白人自身の複雑な自己を投影したものであり、広告商品の購入を通して自らがよりよい社会的地位、文明化された生活洋式、洗練を具現かするアイコンとして利用されているのである。
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