日本の植民地(特に朝鮮)における治安維持法の運用、体制などに関する実証的検討を課題とする本研究は、次のような諸点において日本内地とは異なる治安維持法体制が朝鮮で構築されていたことを明らかにした。 法制そのものが日本内地と異なる朝鮮では、治安維持法に対する当局の認識も相当異なり、斎藤総督は、治安維持法が議会で成立しなければ、朝鮮独自の制令で制定すると示唆する発言をしている。 同法が最初に適用されたのは、日本内地ではなく朝鮮における事件であった。当初から、治安維持法は朝鮮の独立運動に適用されたが、「朝鮮独立=帝国領土の僭竊=統治権の内容の縮小=国体変革」という図式が判例として確立するのは、1930-31年のことである。 独立運動への適用と並んで在外朝鮮人への適用によって、同法は拡大解釈された。検挙者・被起訴者のうち、「帝国領士」外に住む朝鮮人の比重は非常に高かった。中国共産党に加入した朝鮮人にも適用されたため、同法はいっそう拡大解釈・適用されることになった。 朝鮮における治安維持法運用の大きな特徴は、死刑判決が下されたことである。従来の研究では、同法違反だけで死刑判決を受けた事例はないとされてきたが、少なくとも1件あったことを明らかにすることができた。 1930年代以降の転向政策においては、朝鮮人に厳しく転向が求められた。「内鮮一体」「皇国精神」の強調、被保護観察者の生活全体を監視・教化するシステム(大和塾)の構築などは、日本内地では見られなかったものてある。思想犯予防拘禁制度は日本内地に先がけて朝鮮で実施され、被収容者に「日本人になり切る」ことを求め、それが認められない限り、釈放の可能性のないシステムとして運用された。 このような植民地における実態を無視しては、治安維持法の全体像を把握・理解することはできないのである。
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